儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

めも

自分で書いたついはいドラマについての文章を読み直して、先生が扇言を選んだ必然性についての検討・言及が足りないなと感じた。「家族」が欲しい、という願いによる行為の必然性は明らかだけど、相手については誰でも良いんじゃないか?という点について。自分の過去と重ね合わせて、「死にたがり」の高校生(ちょうど同じ年齢の頃に、同じ経験をして、しかしその時は「まともじゃない」ことにより<「道徳的」な抵抗>の諦めを諦めている)でないといけない、という説明はできるだろうけれど、じゃあ先生が高校生の頃、凪先生じゃないとだめだった理由は?ともなるし。うーん、そもそも必然性なんか必要ないのかも。様々な巡り会わせの中で、ただなんとなく「まともじゃない」ことを選ぶゆるさ=<中性>が肝心なところなのかな。教師生徒ものドラマについて改めて考える中で、そんなことを思いました。あと、現実的にはゆるされないことを創作の中で描く意味というか、そのことで受け手が救われる部分があるとしたらなんだろうという、その点についての検討も必要だなと感じました……「まともじゃない」というゆるさにあるのかなあ。