儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

わたしはずっと作間の踊りが好きで、パフォーマンスが好きで、その裏側を知りたいと思っていた。でもね!わたしは実は作間の歌声も好きなんです。だからわたしの近くで歌ってくれたことが嬉しかったし(そこにばみりがあっただけっていうのは知っていますよ)たとえ遠くにいたとしても作間の歌声がいちばんいちばんよく聞こえたの!お花畑野郎ですみません……

めちゃめちゃどーしようもないこと書くけど、すっごく嬉しいことがツアーの中であって、嬉しい嬉しい嬉しいってずっと思ってて、なんなら今でも思ってる!!!でもすごくどーしようもないし、正直他の人からしたらとっても小さなことに映るかもしれない。でもわたしからしたらすーっごく嬉しくて、奇跡が起きたって思ったくらいだったんです……何にも書いてないような日記!わたしはやっぱり世界でいちばん作間のことが好き!

ビンゴ!の覚書そのいち(少年革命ハイハイジェッツ)

☆ビンゴ!全21公演中12公演に入って考えたこと思ったことの覚書、そのいち。

☆わたしは本当は女の子のままで死にたかった。(たとえ振りであったとしても)性愛と結びつく恋愛なんかしたくなかったし、毎日本を読み、そして文章を書きながら生活を営んでいたかったし、作間に会いに行く日は毎回16歳の女の子のために作られたMILKのお洋服を着ていたかった。作間以外の人のことを好きになりたくなかった。久しぶりに会った友人と話して、人間はx = " "の" "部分に容易く放り込まれてしまうこと、そして文字通り変数として扱われることを知る。わたしもまたそのようにして生きている。

☆今回のツアーは、21公演で終わる一つの作品という枠組みに当てはめれば「おしゃれで楽しい夜の遊び場」と位置付けることができると考えているのだけれど、その一方で、ハイハイジェッツという一連の長い長いシークエンスの中で捉えるとしたら「商業ベースに乗った彼らはどう踊るか?」という問いの答えにあたると思っている。2019年5月までのハイハイジェッツは金と権力を持つ一人の男の壮大な箱庭遊びだった。彼の内的世界を具現化したのが彼らの立つ舞台だった。けれども男は死に、5人は少年から青年へとメタモルフォーゼを遂げ、いつの間にか「需要は質より数の時代」になった。いつ頃から彼らが商業ベースに乗った……乗せられるようになったのか、わたしもはっきりとしたことは分からない。ただの一おたくだから。けれどもあの秋の雨の日にはぼんやりとそうした香りが漂っていたように思う。……大きな会場で、何でもできるのに、もっともっと派手なことだってできるのに。今回のツアーで、彼らはシアタークリエの舞台よりも小さなセンターステージで、あの男が愛したであろう世界観の中で踊った。わたしはそれが、どうしようもなく嬉しかった。その身体で踊ること、肉体で何かを伝えること。ずっとずっと変わらないものがそこにあって、いつだってわたしは作間の、5人のパフォーマンスに生かされてきた。

少年がゆるやかに「時」の報復をうけて、この世の生物にすがたをかえてゆくとき、私たちは「滅び」をえらぶ営為の真の意味を知るだろう。それは、二度とくりかえし得ぬ瞬間の、その一度かぎりなることをこそ愛することだ。
中島梓『美少年学入門』

☆少年は、少年のままで革命を起こせるとわたしは信じていた。「滅び」を抱えたまま、この世のシステムを変え、奇跡のような時間を作り出し、そして刹那を永遠に変え、生きながらえることができるのだと思っていた。ハイハイジェッツにはそうであってほしいと願っていた。丸いステージの、シャンデリアにつるされた5人のことを思い出す。お人形さんの5人。実体を持った肉体はミニチュアと化し、わたしの手のひらに乗るくらい、ちっこいちっこい大きさになった彼らは歌い踊り、女の子じゃなくなったわたしの生を言祝ぐ。

☆等身大の延長線上、という言葉のことを考える。たぶんわたしも、等身大のわたしじゃなくて、等身大の延長線上のわたしで作間のことを見つめている。でも、等身大のわたしで見ていたこともあった。わたしも彼らにそうであってほしいと思っている。