儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

たぶん作間は本当に「たとえそのもの」

ひらいて公開までついに一週間です。どきどき。早く見たいんですけど、一方で、まだ見たくない気持ちもあり……わたしは新しいものに触れる際に力が要るタイプの人間なんです。毎回「よし」と小さな覚悟を決めないとバイト先の入り口の扉も開けられないし、教授からのメールも心の準備をしないと開封できません。だから、映画を見る際にも気合いを入れなければならないのです。果たして一週間後のわたしは既に映画を見ているのでしょうか。それとも先延ばし、先延ばしにしているのでしょうか……


以前にも書きましたが、わたしはたとえが嫌いです。……いや、わたしは愛ちゃんが好きなのです。熱に浮かされた人。たとえを手に入れるためなら、どんな手段を取ることも厭わない。周囲を顧みず一心にもがき、何もかもを捨て進んでいく。その姿が好きなんです。

愛ちゃんのそうした言動は、エネルギーに満ち溢れ、強い人間のそれに見えます。けれども、その実彼女は心の中には弱さを秘め、誰かとのつながり、誰かからの承認を切に求めています。孤独に押しつぶされそうになりながら、心の中で繰り返し助けを求めているのです。愛ちゃんにとって、たとえは、手を差し伸べてほしい人でした。だから、彼を奪おうとする行動一つ一つが生きるために必要なものだったのでしょう。多分、彼女はそうすることでしか生きられなかったのだと思います。そんな生き方を間違っているなんて、わたしには言えません。

たとえはそんな愛ちゃんに対して、「なんでも自分の思う通りにやってき」た人と言い、拒絶します。けれども、わたしはそうは思いません。愛ちゃんは思い通りになんか生きていない。確かに、愛ちゃんはクラスの中では目立つ方だし、予備校後に深夜のマックでたむろしているし、つけまして学校行くし(2012年ってつけまの時代だったのかー……という気付き。今だと有り得ないよね)男の子の告白は簡単に、割と酷い言い方であしらってしまうし……派手で、自由奔放で、その姿は恵まれているようにも見えます。けれども、もし、本当に思う通りに生きてきたのならば、自分を揺すぶるような誰かの強い感情、自分を突き刺す言葉を求めたりなんかしないはずです。誰かとのつながりに固執することも、きっとない。たとえは、それに気付いていません。だから、あんな風に言えたのでしょう。わたしには、そんなたとえの方が何倍も生きやすい人間に見えます。

とはいえ、わたしはたとえの発言を責めることもできません。何故ならば、愛ちゃん同様に、たとえにとっても、そうするしか生きる方法がなかったのだから。たとえは父親から苦しめられながら、生きてきた人です。彼にとって、美雪とのつながりは癒しであり、救いだった。その聖域を守るためには、愛ちゃんを突き放すしかなかったのです。たとえも愛ちゃんも、目の前に存在する唯一の選択肢を掴み、なんとか一日一日を生きていたという点では似ているのかもしれません。

さて、作間は雑誌で、もし自分がたとえだったら愛ちゃんの気持ちに対してどうするか……という質問に対し、以下のように答えていました。

間違えたことをしてるんだよって、気づかせてあげようとするかなと思いました。だからたとえも怒りをあらわにしたんじゃないかなとも思いました。
S Cawaii!!』11月号

わたしが愛ちゃんの行動に対しても、たとえの発言に対しても、その正邪について評価を下せないのは、何がどうなったとしても第三者だからです。もし自分が本当に愛ちゃんやたとえの立場だったならば、相手の行動、発言をはじめ、自分に向けられたもの全てに対し、その都度怒り、傷つき、悲しんだはずでしょう。自分が自分以外の何かを見て、それに「成る」と思った瞬間、それは単なる気持ちだけでは説明できないものになる……とはよく言いますが、とはいえ、わたしはどうしたって第三者なので「もし愛ちゃん/たとえだったら……」と想像しても、やっぱり彼女/彼の言動を「間違えたこと」とは言えません。冷静な気持ちが残ってしまうのです。一方で作間は「間違えたこと」という言葉を使っています。ある意味で盲目的な言葉。愛ちゃんの言動をそのように評価できるのは、たとえの目で愛ちゃんを捉えているからなのだと思います。作間はたとえになっている。首藤監督が「作間はたとえそのもの」と色々なメディアのインタビューで仰っているのですが、本当に、本当に作間はたとえなのですね。これに気付いた瞬間、わたしは映画を見るのが一層楽しみになりました。

試写会の動画やお待ちかね作間の恋愛相談室も公開されましたが、これについても22日までに書けたらいいな……