ひらいて観てきました。(散々ひらいてのこと書いてきて今更ですが)ネタバレあるので注意。
ある作品が映像化されるということ。それは、「正解」が示されるわけではなく、無数にある内の一つの「読み」が示されることだとわたしは思っています。そして、わたしは自分以外の人の「読み」を見るのが結構好き。だから、映画のひらいてではわたしとは全く違う「読み」が展開されていたのですが、なるほどーと心の中で何度もつぶやきながら見ていました。
わたしは、とにかく愛ちゃんとたとえの関係性に重きを置きながら原作を読んでいたんです。それは多分、作間がたとえを演じることを知った上で読んだからだと思うのですが(笑)同時に、愛ちゃんとたとえが似ている部分を持っている気がしていたことも理由の一つだと思います。
美雪は、愛ちゃんへの手紙に以下のようなことを書きます。
およそ、忍耐力など持ち合わせていない人が、たとえ打算があったとしても、私の前で恐ろしく辛抱強くふるまい続けるのであれば、私は愛さずにはいられません
綿矢りさ『ひらいて』
「およそ、忍耐力など持ち合わせていない人」これは明らかに愛ちゃんのことです。たとえに近づきたい。そんな打算的な考えで、彼女は美雪と仲良くなりました。一方で、美雪との間に純愛を育んでいるように見えるたとえにも、エゴイスティックな部分があったんじゃないかとわたしは思うんです。それこそ、「春琴抄の逆をしようか」のシーンで、愛ちゃんに語るような理由が。美雪はきっと、それを分かっているのでしょう。その上で二人を愛している、いや、そんな姿を知っているからこそ、愛しているのだと思うのです。救済にも似た愛。愛ちゃんが美雪のことを、玄関の天使の像に似ている、と言うシーンが原作にあるんですけど、まさに二人を癒す天使のイメージなんです。そして、たとえと愛ちゃんは、美雪を対象軸として重なる二人。ぴったりとは重ならないだろうけれど。
映画は、美雪が愛ちゃんの机に手紙を入れるシーンで始まり、愛ちゃんがその手紙を読んだことで物語が終わります。だから、愛ちゃんと美雪の関係性がストーリーの軸として存在しているような印象を受けたのですよね。愛ちゃんの姿も、たとえを求める愛ちゃんというよりは、美雪にひらいてもらう愛ちゃんの方がイメージ的には強いというか。だから、原作よりも天使としての美雪がはっきりと描かれていた気がします。
あと、たとえが原作よりも優しい男の子に見えた。作間が「これ以上突き放せない」と思い、演技を提案したというシーンでそれを感じたのですが、作間がインタビューで言っていたような「かわいそう」、「助けてあげた」い、「気づかせてあげよう」という気持ちが出ていました。前にも書きましたが、わたしは原作のたとえが嫌いで、というのも、愛ちゃんのことを何でも思い通りにやってる子と本気で思っていそうなところが嫌だったんです。でも、映画のたとえは彼女の苦しい部分も見抜いているような気がして、もしかしたら愛ちゃんは「たとえは自分を分かってくれる」と第六感で感じ取ったから好きになったのかも、と思ったり。
そういえば、以前「春琴抄の逆をしようか」について書いたときに、「たとえは愛ちゃんのことをちゃんと見ていた」みたいなことを書いたと思うのですが、やっぱり原作のたとえは見ることが出来ていなかったんじゃないか、と思うようになりました。もし、本当に愛ちゃんの姿をきちんと確かめられていたのなら、映画のように愛ちゃんの苦しみを分かってあげられていたんじゃないかな……と。じゃあ、なんで愛ちゃんが嘘つきだという指摘が出来たのかと言うと、それは「見えていなかったから」ではないかと思うのです。
ぜんたいめしいと申すものは、ひといちばいかんのよいものでござります。
谷崎潤一郎『盲目物語』
見えないからこそ、勘が良い。だとしたら、美雪との間に作り上げた小さな世界を守るために目を瞑っていたたとえは、その世界を壊そうとする気配に敏感だったんじゃないかと思うのです。それゆえ愛ちゃんは嘘をついている、と言えたんじゃないか……というのが今の考えです。
他にも色々書きたいことはあるんですが、とりあえず今日はここまで。エンドロールで作間の名前が流れてきたときに、凄く凄く嬉しくなったことを書き留めておいて、今日の日記は終わりにします。