儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

大好きより大きな16歳のアガペー

あと3日で(寝るまでは2月8日!)作間がアイドルになって9年の日です。何故当日ではなく、こんな微妙な時に入所日の話を持ち出したのか、と言うと、「なんとなくそういう気分だから」としか言えないのですが(笑)日記は自分のためのもの。気分が乗っている時に書くのがいちばんいいと思うので、今から作間の入所日話(というか自分についてのこと)を書きます。

作間のおたくになって良かったと思うこと。沢山あるけれど、その一つに、「読みたい」と思うようになったことがあります。

これを言うと大抵の場合「何を言っているんだ」という反応をされるし、かつ、自分でもそれが訳の分からないことだと理解しているので、あまり人に言うことはありませんが、わたしは「読み方」、特に日本語で書かれた小説の「読み方」が分かりません。文字自体は読めるんです。意味も分かる。情景も想像できる。でも、読めたと思えたことがなかった。意味が分かったとしても、その言葉の美しさに身を委ねることが出来ない。表現、音、その手触りを楽しもうとすると、今度は意味が入ってこない。人と比べて圧倒的に読書量が少ないこともあるのでしょうが、それにしても、わたしには読む力が足りない。

初めて、何かを読みたいと思った記憶。わたしはずっと、「ひらいて」との出会いがそれにあたると思っていました。けれども、よく考えてみると、作間のパフォーマンスを初めて目にした瞬間に芽生えた気持ちも、「読み」への希求と言えるのかもしれません。何を考えているか分からない。今までわたしが好きになったものとは違う。けれども、惹きつけられる。知りたい。好きだと言ってみたい。そのために、作間のことを分かりたい。そのパフォーマンスに込められたものが何なのか、パフォーマンスの向こう側には何があるのか、分かりたい。「分かりたい」という気持ちは、いつしか「書きたい」という「読みたい」と背中合わせの感情へ変化していきました。

以前、お友達から「りりいは書くのが好きとかじゃなくて、書かないと生きていけない人なんだよ」と言われたことがありました。書かないと生きていけない。自分でもそう思います。他の人みたいに凄い文章が書けるわけでも、価値のある言葉を残しているわけでもない。けれども、高校生の頃、世界が言葉で出来ていることを知り、わたしにも言葉が必要だと、わたしもきっと言葉で救われるんだと思うようになりました。その日以来、くだらないことを毎日書き留めるようになった。それは息を吸うように。あるいは、膿を出すように。自分の中にあるものを、言葉として外に置けば、どんな世界の中でも生きていけるような気がした。それに、わたしは、人と比べて、または自分の中の他の力と比べて、外界の情報や、見たもの、聞いたもの、感じたことを溜めておける容量が少ない。だから、書くことでしか、自分と、その周辺に散らばるものを取っておくことが出来ないんです。自分を保つためには、言葉が必要。言葉を重ねて、織り込む。その繰り返し。作間が好きな気持ちも、言葉にして残さなかったら、ここまで増幅しなかったと思います。

けれども、最近は、言葉を重ねていくことに対して、懐疑を抱くようになりました。言葉を切り貼りすることで、作間から遠ざかっていくような、堂々巡りに陥っているような……そんな気がするのです。ずいぶん前に国会図書館でコピーしたので、正確な出典はわからないのですが、「よいかよ」に掲載された加藤秀樹の「半欠けの月と麦わら帽子」という題の文章に、「文章は、目的じゃない」という一文があります。文章は、愛するものを追い求めていく過程で生まれた感情を、まとめるための記念碑だ、と。わたしは書くために作間を好きでいるんじゃない。作間が好きな気持ちが言葉になっただけ。でも、それを忘れかけてしまう時がある。そして、そういう言葉が世界で一番嫌い。自分は本当に作間のことが好きなのか、おたくなんかやめた方がいいんじゃないか……そう思うんです。そうした気持ちを抱え、立ち止まった時……つまり、それは、自転車ごとひっくり返ったあの日から、冬の帝国劇場が終わるまでの期間なのですが……わたしは作間のことを書きたいんじゃない、読みたいんだ、とようやく気が付きました。

「読む」ということ。それは、言葉を押し付けて、なんだか意味のあるような、ないようなことを書いて、作間のダンスを翻訳したような気持ちになりたい、ということではない。パフォーマンスに何らかの意味付けをしたいわけでもない。わたしは、作間の自由な肉体に憧れる気持ちを、もっと純粋に楽しみたい。縦横無尽に滑り、駆けていく身体を前にして、何もできなくなってしまう瞬間にもっと浸りたいんです。わたしはそれを、読むことだと言いたい。そして、その瞬間を、動いているそのままの形で残したい。そのためだけに、言葉を残したい。作間の肉体によって織り込まれたものに、もっともっと近づきたい。……でも、どうしたらいいんだろう?そのための方法を、わたしはまだ知りません。知らないから、知らないなりに、自由に読んでみたい。もしも作間のダンスが織り込まれたものなら、きっと、そこには読みの可能性が広がっているはず。だから、その範囲内で楽しむことくらいは許してくれるでしょう。揺らいでしまうこともあるけれど、自分らしく、自分のペースでこれからも好きでいたい。そう思っています。

短いおたく歴の中にも色々なことがありましたが(本当に色々なことがあった……が、ごきとーせんラストで全て清算したのでもう書かない)作間担になったことを後悔したことは一度もないし、むしろ、作間担になって良かったって思ってる!15歳の作間を見つけた時、その気持ちに蓋をしようとしたけれど、抗えないくらい強い力で引っ張ってくれたから今があります(なんだか怪文書みたいになってきた)。今日までアイドルでいてくれてありがとう。

……なんだか、結局、この日記自体がわたしが忌避しているものになっている気がしますが、書いてしまったものは仕方がない。あまり悩まないのも大事!!!そういえば、この前少クラのびーくーるがめちゃめちゃよかった!!!!ので、次は多分それについて書きます(とか言って河川敷ゆーちゅーぶについて書くかも)。


追記で拍手のお返事です。

>>2022-02-07 15:27 いまさら~
拍手ありがとうございます。全然的外れじゃないですし、ちょうど気分が落ちていたので、このメッセージを読んで元気が出ました。わたしはおたく以外のことに関しても、人と比べて悩んでしまうことが多くて、特に高校生の時は「どうして周囲の人のように出来ないんだろう?」とずっと考えていました。それこそ、「ひらいて」の愛ちゃんのように教室から抜け出すくらい、落ち込んでいた時もあったんですけれど、その頃、突然「わたしは涼くんや瑞稀みたいに凄いことは出来ないけれど、わたしにだって出来ることがある!」という謎の自信を手に入れたことがあったんです。今思うと、物凄くおこがましい考えですが、その日以来、不思議と物事が上手く……とまでは行かないけれど、なんとか進むようになりました。多分、わたしにとって大事だったのは、本当に自分が価値ある人間かどうかを確かめることではなく、「自分は自分」という気持ちを持つことだったんだと思います。最近は、そのことを忘れていて、色々なことで落ち込んでいました。だから、もう一回、その時の気持ちを取り戻したいな、とあなたのメッセージを読んで思いました。ありがとうございます。