儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

はいちゅーぶの感想、ではないかも

水上バス目掛けて駆けてゆく3人の姿を見て考えたこと。いつか作間が言っていた言葉。ハイハイジェッツという船、について。

はいちゅーぶで5人が出掛けたのは大阪で、あの3人が見つめていたのは大阪港だと思うんだけれど、東京湾には納涼船という夏限定の遊覧船があって、都内近郊の大学一年生の多くがサークル仲間や友達、恋人と一緒に乗り込む。わたしも大学に入学した年の7月か8月に、学部に入ってから仲良くなった子と浴衣を着て乗った。他の子はその場の空気に身を溶かし、東京の夜景を楽しんでいたけれど、正直言って、わたしは凄く怖かった。だって、手すりから半身を乗り出して下を覗き込めば、そこは黒く濁り、底の見えない海なのだから!外に出たいと思っても出られない。言わば船は密室で、閉じ込められたも同然なのだ。高校生の頃、新幹線で起きた事件についてあらゆるメディアが頻繁に報道していた際に、友達が力説していたことを思い出す。私たちは新幹線の恐ろしさをもっと理解しないといけない、だって新幹線には逃げ場がない、在来線だったらすぐに扉が開いて降りられるけれど、新幹線は十分、二十分、三十分待たないと扉が開かないのだから。当時はその子の言っていたことをあまり理解できなかったけれど、今ならよく分かる。自分の意志で逃げられないこと、動けないこと。今のわたしは、そのことを、怖い、と思う。

船と家族は似ている。囲まれている感覚がある。逃げることは容易ではないのだろう、と思う。以前、血縁の鎖の先端に位置する自分についての説明を求められたことがあったけれど、わたしにはどうしても家族の中の自分について語ることが出来なかった。そして、語ることが出来ないことを不思議がられた。家制度は戦後廃止されたけれど、観念上において、血縁と、その先に結ばれた家という囲いは未だ残っている、のかもしれない。

そしてわたしが思うのは、ハイハイジェッツという船、は、ジャニーズという後天的な血縁の鎖に繋がれたハイハイジェッツという家族、とも言い換えられるのではないかということ。

家族はロロ・メイの示したイノセンスが表出する場だ。自分が生まれたことについて、自分は責任を持たないということ。ジャニーズアイドルの原初的な姿に、わたしはこの責任のなさを読みとる。だって、ゆうりが自分から進んでジャニーズになったと、自分の意志でジャニーズという道を選び取ったとは思えない。こんなことを書くのはどうかと思うし、わたしは令くんがアイドルとして色々な工夫をしていることも多少は知っているつもりだから、我ながら、ああ嫌な書き方だなあ、とは思うけれど……令くんの話した「<もしジャニーズじゃなかったら>生物学者になりたい」という言葉は、「<今抱いている将来の夢は>生物学者」にすり替えてもそんなに違いはないんじゃないかと思う。

そして、ハイだって、作間だって、かつてはそうだったんじゃないか、と思う。優斗くんは「ジャニーさんが選んだこの5人」とよく言う。改めて打ち込んでみて、この言葉の響きに驚く。聞くたびに、過不足のない、ハイハイジェッツの説明だな、と思う。ハイハイジェッツはジャニーさんが選んだ5人の男の子なのだ。文字にしたら当たり前すぎて、何言ってんだって自分でも感じるけれど、でも彼らは元来、それ以上でもそれ以下でもない。そして、<ジャニーさんが選んだ>という言葉に重みが付加されているということ、それ自体が血を連想させる。2019年7月までの……いや、もしかしたら1月までかもしれないけれど……ジャニーズのユニットのメンバー編成なんて、あのおじいさんの気まぐれだ。恣意的としか言いようがない。けれども、その恣意的な選択が絶対的なのだ。ジャニー喜多川という絶対神が、秩序が、ジャニーズという世界において人と人を繋げてしまえば、それはもう背けない鎖になるのだ。この逆らえなさに、わたしは家族という囲いを見て取っていた。だから、わたしは、今よりもほんの少しだけ昔、作間について色々なことを妄想しては落ち込んでいたんだと思う。……それは全て、作間の口から否定されたのだけれど。作間はどんなことを思って、ハイハイジェッツを船と喩えたんだろうね。いつか、ハイハイジェッツという船から出て、鎖を外す時が来るのかな。わたしは作間に結ばれた後天的な血の繋がりと、彼が乗った船と、一緒に乗っている顔ぶれにたまらなく愛おしさを抱いているから、そんな日が来てほしくないと思う。でも、そんな我儘はきっと許されない。無邪気にそう言えなくなる日が来るのかもしれない。