儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

傷んだ愛を迎えに来たんだ

全然日記を書いていませんがちゃんと生きています……ぼんやりしていたら福岡公演どころか新潟公演も終わってしまいました。そして、まさかの4月さえも終わっていました……あーあーあー。別のところでメモとか残してるので、そこへのリンクを貼って日記を書いた気になろうかなあとかも考えているのですが、うーん……とりあえず、近々福岡と新潟の行動記録は書こうと思います。だってせっかくのアリーナツアーですし!!

新潟から帰ってきて、ハイハイジェッツのパフォーマンスを享受することの難しさについて考えています(これは世間一般においてではなく、わたし自身において、ということです。)。新潟公演で、ハイハイはパフォーマンス第一主義だという話が出ていたけれどこれについてはわたしも完全に同意で、彼らの言葉が決して逆張りでもなんでもなく、本心だということは分かっている。そして、わたし自身もまたハイにはパフォーマンスを第一に求めているし、もっと言えばパフォーマンス以外の全てを削ぎ落したとしても、「ハイハイジェッツ」は不足なく成立すると考えている。その一方でアリーナツアーが始まって思うのは、勿体ない、ということ。だって、だってだって、ハイはローラーを履いている時でも、素足の、生まれ持った足のように踊れるのに、外周を駆け抜けていく時間がとんでもなく長いのですから!!!あのスピード、風、翻る衣装の裾は逃走線を連想させて、それもそれで魅力的なのですが、わたしはやっぱり踊っている5人を見ていたいのです。それと、これはわたし自身についての話だけれど、パフォーマンスを受け取るには、さらに言えば、パフォーマンスを記述する言葉を持つにはある程度の条件が必要で、自分にはそれが足りていないな、とつくづく思います。ここ2年くらい言っていることですが、わたしは作間の踊りを書く、という営みのために必要な能力が書けています。踊りを書くってどういうことだろう、あの躍動を目の当たりにしたときの心の動きを残すことなんてできるのだろうか、と無力感に苛まれる日々です。これはわたしにそうした語彙がないこと、そうした勉強をしてこなかったことが理由だと思っていたのだけれど、最近は、世界と身体との境界線……これは皮膚と言うこともできると思う……をわたし自身が持たないからなんじゃないかと考えています。

激しい運動をして筋肉がこったり、汗をかいて肌がひんやりするのも、他人の手で身体をなでられるのも、お酒を呑むと血が皮膚の裏側ぎりぎりのところにまでも押し寄せてくるような感覚があるのも、みな、身体のおぼろげなイメージ、たよりないイメージを補強する効果をもっているのだろう。
鷲田清一「ちぐはぐな身体 ファッションって何?」

ずっと、わたしは身体感覚が薄く、内臓や血の巡りを感じられない人間なのだと思っていました。でも、最近考えるのは、そのもっと外側に対する意識がなくて、自分の身体を世界に溶かすことしかできない状態なんじゃないか……ということです。だから、作間の踊りを目で追うことで、他者の身体の輪郭線を感じ、安心感を得たいのかもしれない。同時に、わたしがダンスについて語ることができない理由もここにあると思っていて、自分の肉体に重ね合わせることができない(重ね合わせる身体を持っていない。わたしにあるのは世界に溶けた何かだけ)から何も言えない、言葉を持てないんだと思います。肉体という器の内側を求めすぎてしまう……さらに言えば、他者の肉体を器としか見られないのは、この身体を、熱の帯びたものだと思えていないからなのでしょうね。