儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

会いたい この胸の穴はあなた

オートリバースの文庫版が届きました。ペーパーバック版を持っているから買わなくても良いかな、と思ったのですが、書き下ろしのあとがきが収録されているという事前情報があったので結局Amazonで注文してしまいました。

文庫版の帯には「“推し”がいる幸せはあの頃も今も変わらない!」とありますが、わたしはこのフレーズをなかなか飲み込めません。もし、この作品の帯につけるとしたら「”推し”がいる苦しみは……」の方がふさわしいだろう、と思うのです。

八十年代の青春の物語だけれど、当時生まれていなかった若い世代に読んでもらえて共感されたのは、この「推し」の尊さと大切さが当時も今も変わらないからだろう。何かを熱烈に応援する。それは仲間を作るし、それは退屈を殺してくれるし、目的という熱を生む。
高崎卓馬「文庫版あとがき:彼らに捧げるドラゴンフライ」『オートリバース』

千葉の片隅で生きていた中学2年生のチョクと高階は、小泉今日子という”推し”に出会い、新たな居場所と役割を見つけます。初め、彼らにとってそれは、うだつの上がらない日々の中で見つけた光であり、生きる意味でした。しかし、やがて彼らは、ようやく見つけたサードプレイスにより破滅の道を歩むことになります。オートリーバースで終始描かれているのは、推すことによる幸せではなく、推すことによる苦しみです。もっと言えば、推すことの周辺に位置する、人間関係の縺れや、それぞれの信条の相違、小集団内の政治により、仲違いし、一度手にした居場所をまた失い、自分たちの世界だけではなく、社会の中で孤立していく様子が描写されています。そして、わたしがオートリバースという物語に惹かれたのは、丁寧に描かれた苦しみに、自分自身の経験や、周囲のおたくの子たちの姿が重なったからです。わたしがチョクや高階の姿を目で、耳で追う時の気持ちは、周囲のおたくの子たちの話を聞き「ああ、もし”推し”が居なければ、この子は……」と、何もできないくせに、わたしだって同じ穴の狢なのに、偉そうにそう心の中で独り言ちる時と同じでした。決して、先の引用部分に書かれているような、美しい部分に共鳴したからではありません。

とはいえ、アイドルを好きでいたからこそ得られたものがあるのも確かなことです。けれども、それは『「推し」の尊さと大切さ』といった言葉で言い表せるものではなく、「仲間を作ること」「退屈を殺すこと」「目的という熱を生むこと」でもありません。この日記に何万文字、何十万文字と書いてもまだ表現しきれない何かが、わたしと推し……ではなく、自担を巡る、わたしのだけの物語の中に存在しています。それはわたしに限った話ではなく、アイドルを好きでいる人、一人ひとりの中に、固有の色を持って存在しているんじゃないかとわたしは思っています。結局、そうした部分はわたし固有のものであり、あなた固有のものだから、誰かの言う”推し”のいる幸せを自分事として考えることが出来ないのでしょう。それに、不健康的な部分の方が何倍も大きいから、「”推し”がいる幸せは……」というような言説に頷けないのかもしれません。そういえば、1年ほど前に、某昭和アイドルのラジオにオートリバース云々のメールを送ったところ、採用され、佐野元春の「Someday」を流してもらいました。あれはオートリバースの世界に入れたみたいでちょっと感動した。