儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

きっと青春が聞こえる その瞬間が見たいね

勉強していると、たまに物凄く感動することがあり、そうした瞬間はなかなか忘れることが出来ません。例えば、そうした記憶の一つとして挙げられるのが、高校生の頃、授業で、フーコーの言葉を教えてもらった時のこと。異常とされている人々は本質的に異質なのではなく、ただ少数であるというだけだ……というような言葉に救われたことを、わたしは今でも鮮明に覚えています。あまりの衝撃に、授業ノートだけではなく、自分の手帳にも書き取ったな。ジャニアイのハイの台詞を書き留めるのと同じ感覚で……やっていることが18歳の頃から変わっていないと考えると恐ろしい。でも、あの出来事、邂逅は本当に衝撃でした。もし、あの授業を受けていなければ……わたしは全く異なる人生を歩むことになっていたと思います。

このことが示しているのは、哲学者の仕事の本当の統一性とは、統一性の欲望から生じる欲望であって、構築された体系や再発見された統一性のなかでの自己満足ではないということの証拠です。一人の哲学者について妥当する以上のことは、哲学者の系列全体についても妥当します。(中略)したがって、この統一性は完全には失われていません。哲学の歴史があるということ、言いかえればこの統一性を言い表そうとする言葉に本質的なばらつき、不連続性があるということは、確かに私たちが意味の掌中にないことを証言しています。
ジャン=フランソワ・リオタール(訳:松葉祥一)「なぜ哲学するのか?」

哲学することの中に、不連続な統一性があるということ。誰かの書いた言葉を解読するところから、哲学の営みが始まるということ。そのことに対し、わたしは途方に暮れると同時に、希望を見出しています。問いがどこまでも続くこと、わたしが今読んでいる言葉も途切れ、接続されながら続いてきたのだということ……そのことは、哲学すること、あるいは学ぶことが孤独な営みではないと言っているようにも感じます。机に向かっている時には気が付きませんが、何かを読み、考え、書いている時、わたしは広い世界を向いているのかもしれません。

そういえば作間がたかちん(本当にこの呼び方しているのか?)に教えてもらったという性格診断をわたしもやってみました。INFP-Tだそうです。作間のISFJとの相性を調べてみたら「INFP(わたし)がISFJ(作間)に対し、一方的に魅かれているアンバランスな関係。ISFJ(作間)はINFP(わたし)に対し、自分よりも優れていない印象を持つ」と出てきました。ちなみにISFJ(作間)とINFP(わたし)が良好な関係を築きには、ISFJ(作間)がINFP(わたし)の性格以外における良い点に気が付く必要があるそうです。作間に尊敬してもらえるように資格でも取ろうかな……話は逸れますが、この性格診断を本気で信じてしまう人もいるらしく、元ネタになっているユングの類型論をベースにした性格検査の団体がキレッキレな注意喚起をしている、ということを知りました。世の中には知らない世界が広がっているのですね。でも、この性格検査だけが過剰に信じられている傾向は確かにあるような気がする。血液型診断はバーナム効果だと切り捨てられがちなのに、どうしてこれは信じる人が多いのでしょう?一応既にある性格検査が元ネタだからかな。不思議です。ちなみにわたしはタイプ別診断や占い的なものが好き♡小学生の頃、図書室の占いの本に飛びついていた人間です。作間担になってからは誕生日占いのサイトとかで相性診断をしていますが、なかなか良い結果は出ません。わたしと作間の相性が最高という結果が出る占いないかなーー……作ろうかしらん。サイトの新コンテンツに占い、良いかもしれません。でも値を取ってうんにゃらかんにゃらと考えるとhtmlでは明らかに完結しない!phpで書こうかな?もし作間との相性を(むりやり)100%にしたい欲が年末年始になってもなくなっていなければ何か作ってみようと思います。

あと、らじらーは「なんか怖いな……」と思い聴けておりません……わたしは作間の飲酒話を聴きたくないのです……作間が大人になっていく姿を見ると、自分の至らなさが目につき落ち込むからです……あーあーあー、しょうもないおたくでごめんなさい……作間のことを考えて落ち込むのではなく、自分も頑張るぞ!という方向にシフトしたいです。