儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

イメージそのものは何も示さない。仮にイメージが何かを意図的に示したとすれば、それは伝達となり、もはやみずからのイメージとしての性質を示さなくなる。つまりまなざしの期待ではなくなる。だからこそ、共同体の議論においては見えないものではなく、「見られざるもの」について、つまり意味の待機について語るほうがよい。意味の決定可能性に関するこのような状況は、イメージそのものは基本的に未決定で決定不可能であることを前提としているのだ。
マリ=ジョゼ・モンザン 訳:澤田直・黒木秀房『イメージは殺すことができるか』

表象は不思議だ。わたしの思っている通りに読みとれる。好きなように、歪曲される。それはイメージの特徴でもある。少年たちという作品が好きではなかった。チープだと思っていたから。何も読みとれないから。けれども、「格子なき牢獄」という、いつかの副題、そして少年の漏らす苦悩の言葉の中から、何かを読みとってしまった。その瞬間に、現実世界の彼らと繋がるような意味を持った作品になった。

ピナ・バウシュの作品において、板の上に立っているのは、演じられる身体ではなく、生身のプライベートな身体だという。対話のメゾッドがそうさせているらしい。では、もしジャニーズの舞台作品で、板の上に立つ身体が、プライベート身体なのだとしたら、そうまなざされるとしたら……アイドルというシステムがそうさせているのだろう。アイドルというシステムは、生身の人間を物語と共に提示することでパッケージ化する。でも、それは本当に生身の身体なのだろうか? 彼らが人間ではない別の何かである、という可能性に期待する。生の人間をそこに立たせるということ、自分がそうさせていることに耐えられない。実体を持たない身体であってほしい、と思う。けれども、生への感動を求める自分自身が存在していることも確かだ。この欲望を巡る矛盾の中にわたしは立っている。