儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

1年は12か月 その先に何があるか

ついに始まった帝国劇場ジャニーズアイランド。会見でも言っていたように、今回のジャニアイは、プロデューサーから直接13月を教えてもらった子たちが、13月を知らない子どもたちと一緒に12か月を巡り、宇宙へと旅に出るお話でした。

13月とは何か。これは、物語の中の子どもたちだけでなく、観客側にとっても理解が難しい、抽象的な概念です。単に暦を意味しているわけではありません。永遠の平和、欧米(特にアメリカ)に負けないエンターテインメント、子どもたちの幸せ……これらが達成された世界と読みとることも可能でしょう。しかし、これでもまだ十分に説明できているわけではありません。敢えて一言で言い表すとしたら、「ジャニー喜多川の精神世界、とりわけ彼が望む未来」でしょうか。少年たちは、プロデューサーに導かれ、旅をし、唐突に(それはもう、唐突としか言えないようなタイミングで)仲間割れをしたり発狂したりするわけですが、その姿は、ジャニー喜多川というジャニーズワールドを治めている人間、あるいは一種の神に振り回されている現実世界の彼らと重なって見えてきます。そうした演技を見るたび、「ああ、ジャニー喜多川はこうした少年の危うい部分を心の底から欲しているのだろうな、この危うさこそが少年の美しさなのだろうな」と納得したのでした。どんなに世の中が幸せで、満ち足りたものになったとしても、多分あの人は不安定な少年の心だけはそのままにしておきたいと願ったのではないでしょうか。

さて、今回、最も印象的だったのも、やっぱり少年が悩み苦しむシーン。まだ13月を知らない少年・リッキーとなおちゃん(最近織山のことをなおちゃんと呼んでいる。名前が二文字だと~~ちゃん、と呼んだ時にしっくりくるので)が「13月とは何なのか」「こんな旅に意味はあるのか」「さっさと意味を教えてくれ」と叫び、訴える場面です。優斗くんをはじめとする、13月を知っている子たちは「もうすぐわかるから」「みんなこうして13月の意味を学んできたんだ」と落ち着かせます。なんだかこちらもメタっぽい。このシーンを見ながらわたしが思ったのはこんなことでした……宇宙への旅は、エンターテイメントというゴールのない航海を意味しており、リッキーとなおちゃんの訴えは、その旅を始めたばかりのジュニアたちの叫びである。エンターテイメントに自分を捧げることが本当に正しいのか。自分たちは何を求められているのか。どう振る舞い、どうステージに立つのが正解なのか。そもそもステージに立ち続けるのが正解なのか。優斗くんたちは有楽町でショーを何度も繰り返すうちに、幸か不幸かその問いに自分たちなりの答え、それも、エンターテイメントに従事し続ける、という類のもの、を見つけてしまった。そして人ではなく、エンターテイナーとして生きる覚悟――即ちそれは、13月=プロデューサーの意のままに進む半フィクションの世界、現実とは切り離された一種の異空間で、少年性を保ったまま生きるということ――を決めてしまった……これは少しこじつけかもしれないですね。でも、舞台は生もの。生身の人間が演じ、客席と舞台が時間と空間を共にして生まれる芸術です。だから、演者のファンばかりの客席が、役を脱いだ状態の彼らと、役を演じている彼らを重ねて見てしまっても無理はないと思うのです。

そもそも、何故、13月を見つけるために、宇宙へ行かなければならないのでしょうか。その背景には、13月の作り手であるジャニー喜多川のバックグラウンド――ジャニー喜多川という人物を、あらゆる観点から、中心と周縁、マジョリティとマイノリティのいずれかに振り分けると、後者になる場合が多いこと――が関係していると、わたしは考えます。日系2世であるということ。性的指向。意外に思われるかもしれませんが、エンターテイメントに従事しているということも、周縁部に位置づけられる要因の一つです。なぜなら、本気でエンターテイメントの研究をしようとすると「本当にあなたは<そんな>ものの研究をしたいのですか?」と聞かれてしまうのが、アカデミアの現状であり、世間一般の眼差しなのですから(わたしは別にエンターテイメントや舞台芸術を専門にしているわけではない……が、そうした分野のプロフェッショナルが教えてくれた)。中心にいると、見えないものがあります。自分の居場所を知るためには、自分を相対化させなければなりません。そのためには、中心から、今いる場所から、常に逸れ続ける必要がある。逆に言えば、初めから周縁部に置かれている人は、自分の立ち位置、見られ方を否応なしに突き付けられているのかもしれません。ジャニー喜多川はそのことを知っていて、だからこそ、13月というユートピアを知るために、自分たちの住む地球を宇宙から俯瞰的に眺める……という設定にしたんじゃないか、と思うのです。13月という理想の未来を実現させる場所は、他でもない地球、日本、東京なのですから。

さて、今回のジャニアイは、13月をプロデューサーから直接教えてもらった子たち、新たに13月を見つけた子たち、両者が切磋琢磨しながら、13月の向こう側を目指そう、と決意するところで幕が閉じます。今までのジャニアイ(ジャニワ)シリーズは「13月を目指す」物語でしたが、今回はその先へ進むイメージ。13月が目指すべきところから、通過点へと変わっています。その背景にジャニー喜多川の死が存在していることは明らかです。舞台の面白いところは、大抵の場合、受け手全員が同時期にその作品に触れるという点。映像作品は場所や時間を問わず、何度でも繰り返し再生することが可能ですが、舞台はその場で一度きり。日本の場合は(劇団四季は例外だけど)ロングラン公演がほぼ行われないので、数週間から数か月という短い期間のうちに観劇するしかないのです。だからこそ、その時々の影響を強く受ける。舞台に立つ演者の状況、作り手側の事情、演劇というソフトを支える劇場というハード、あるいは観客側のあれこれなど。演劇は板の上で起こることだけでなく、その周辺も含めて一つの体験を生み出しているのだと思います。13月の扱い方、あるいは読まれ方がこのように変わっていくのも、演劇というスタイルをとっているからなのかもしれません。

……ばかみたいなことを考えていて、自転車で転んで、全てを落としてきてしまったので、こういう感想しか出てきませんでした。でもノイナとか、LGTTとか、パフォーマンスについても書きたいことがじわじわと湧き出てきたから次入るまでに時間あったらメモ残すかも。今回の日記書くために、中学生の時に見たジャニワのメモが残っていないかナノのホムペを探したのですが(あの時すでに時代遅れだったナノ)ちゃんとしたものは見つかりませんでした。悲しい。「去年の方が好きです」としか書いていなくて、何が何だか分からず、もっとまじめにメモしておけばよかった!!と思ったので今回はちゃんと書きました。8年後「2022ジャニアイのメモはどこだーー!!」となったらここを探してください未来の自分……