儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

キラキラしてる瞳にずっと抱きしめられたい

一つ前の日記でマラルメの舞踊に関する記述を引いてからダンスについて考えています。わたしは作間のダンスが好きなのですが、しかし、よくよく考えてみるとダンスそれ自体について言及したことは今までにあまりなかったような気がします。それはダンスを見ていると、夢中になって言葉を失ってしまうから……という理由もありますが、そもそもダンスについて語る言葉を知らないということの方が大きい気がします。けれども最近のわたしは作間の肉体に興味がある!!!(こうやって書くとやばそうに見えるのなんで)ごきとーせん辺りから「Reden ist Silber, Tanzen ist Gold.」を心に刻んで生きてきましたが、やっぱりわたしはダンスについて語る言葉がほしい!ダイブの飛沫風に言うのならば、それがわたしにとって、世界と繋がる方法なのです。でも言葉を奪われてしまうほど、強い衝撃を与えてくれるパフォーマンスがこの世に存在することも知っていて。そういう瞬間に触れたいという気持ちがあるのも事実。何はともあれ、はやく帝国劇場で双眼鏡を覗きながらぼーっとしたいです……さて、「踊る<エクリチュール>」という言葉をマラルメは用いていましたが、何故<エクリチュール>なのだろう?<パロール>ではだめなのだろうか?という疑問が湧いてきました。きっとちゃんと引用元を読めば分かるのでしょう……いや、分かるかな。分からない気もする。そう思ったのは、以下の一節が頭に過ったからでした。

日本語の<言語環境>にも、「語られる言葉」と「書かれる言葉」との優劣という現象がないわけではない。それは上述のように格調高い「文語」と日常的な「口語」であったり、あるいは公共圏における権力者の「文語」使用と親密圏のコミュニケーションにおける「口語」表現であったり、さらには学問の諸領域における口頭発表と書かれた論文の業績としての評価であったりするわけで、こうした多様な現場における言語使用の習慣は、ヨーロッパ思想の伝統とされる<真理>と<音声言語>の結びつきとは全く無縁な価値判断に由来しています。つまり<パロールエクリチュール>の階層関係そのものが、日本語話者にとっては体験的には思い当たるところの少ない外来の知識です。
工藤庸子『女たちの声』

わたしはキリスト教のお話が出てくる小説を読むと、「きっとわたしはこの物語を本当に読み取ることは出来ないのだろうな」という諦念を覚えることがあります。生まれた時からキリスト教の考えに触れている人と、そうでない人とでは、考え方が根本的に違う。アリョーシャとイワンは神がいるかいないかでめちゃめちゃ話し込んでいますが、そもそもそうした議論をできることが、神を信じていることの証明になっている気がします。だってわたしは神がいるかいないかということさえ考えたことがない!!なぜなら、神という概念がわたしの世界にはないからです。で、パロールエクリチュールの話も同じだと思うのです。フランスにおけるパロールエクリチュールの階層関係自体、わたしの世界には存在していません。だってわたしはじゃぱにーず。どちらかといえば、「書かれたもの>話されたもの」という構造の方に馴染みがあります。このように、そもそものこと、が分かっていないから、「踊る<エクリチュール>」の意味が本質的には理解できないんじゃないか、という気持ちがあるのです。でもわたしは作間が踊ることで何を記述しているのか何も記述していないのか、に近付きたい!!!から、年末年始はマラルメ読みます多分……(それよりもダンスのはだしょー見るのが先ということは分かってます)