儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

愛ちゃんと七つのヴェールの踊り

「夕立ダダダダダッ」の動画が配信された際、首藤監督は振付にワイルドやビアズリーをはじめとする耽美主義の要素が入れられていることに触れ、原作にあったサロメの要素を脚本には入れられなかったことを語っていました。しかし、この映画は「春琴抄の逆」であると同時に「サロメの逆」と言えるくらい、ワイルドの「サロメ」をなぞり、そして逸れていく構造になっているのではないか……と思うのです。

サロメは文学や戯曲、オペラ、バレエ、絵画など数々の作品のモチーフになってきました。ワイルドの「サロメ」もその一つです。ヘロディアの娘であるサロメは、義父であるヘロデ王の前で踊り、その褒美としてヨカナーンの首を求める……この伝説からサロメファムファタールの代表格とよく言われているようですが、フランス文学者の工藤庸子はこれを否定し、数々の作品に登場するサロメは共通して「少女性」を有していると指摘しています。ファムファタールは性的に成熟し、男性を翻弄する妖艶な女性。一方で、サロメは、母といまだ一体を成す幼い少女なのです。その証拠に、サロメは母の「ヨカナーンを殺したい」という願いを、母に代わって父に伝え、そして実現させています。ワイルドの描いたサロメも、母に反抗的な態度を見せていますが、結局は同じ結末を辿ります。

そして、愛ちゃんにもまた、数々のサロメ同様に「少女性」が存在していると思うのです。工藤が示している少女性の定義は『気位が高いこと、他人を寄せつけぬこと、ひとりだけの美の世界をもっていること、孤独であること、そして何よりも、性的にはあいまいな存在であること、さらには少女にかぎらず一般に、純潔とは残酷なものであること』。愛ちゃんは、気位がバリバリに高いです。自分のクラス内での立ち位置をしっかりと把握し、その上で文化祭実行委員として働き、出し物のダンスではセンターを陣取っています。けれども、なんだか近寄りがたい雰囲気がある。お昼休みに一人でぼんやりとする時間があることは、それを示しているような気がします(そういえば愛ちゃんが学校で誰かと一緒にいるシーンってあまりないな……)。それに、(なんだか理由になっていない理由だけど)お財布がヴィヴィアンだから「ひとりだけの美の世界」を持っていそうではある(そもそも、原作では図書館で一人ワイルドの「サロメ」を読み、家では聖書をめくりながら朝ご飯を食べ、好きな男の子に対し「春琴抄の逆をしようか」と言う子なのですよ!)。そして、孤独。愛ちゃんがたとえからの承認をあんなにも求めていたのは、心のどこかで満たされなさを感じていたからでしょう。最後に性的なあいまいさ。愛ちゃんは自分の「女」としての魅力を最大限利用しています。たとえの前では自分を魅力的に見せる仕草をし、更には下着姿で迫る……けれども、まだ制服を身に纏い、学校へ通う身分。美雪を襲った後執拗に手を洗う姿には、ファムファタールに含まれる要素の一つである「悪女」になり切れなさがあります。たとえから「服を着ろ」と言われ、素直に従い、自身の性的魅力を押し出した姿から制服を着た少女へ戻る様には、そのあいまいさが表れているのではないでしょうか。そして彼女の抱えるたとえへの気持ちは残酷さを孕み、爆発していきます。

さて、サロメに重要な要素として、他に「舞踊」があるわけですが、ワイルドはこれを「七つのヴェールの踊り」と名付けました。本文中には「サロメ、七つのヴェールの踊りを踊る」というト書きにのみ登場します。ダンス自体の描写がそれのみなのです。戯曲ということもありますが、フローベールの著した「ヘロディア」では、一つ一つの動きが細やかに描かれていますから、その簡潔さはより一層際立ちます。

工藤は「ヘロディア」におけるサロメは自ら語る言葉を持たない少女であり、だからこそ、「踊るエクリチュール」を現前させるために踊る「踊り子」の理想であるとし、マラルメの以下の一文を引いています。

すなわち踊り子は踊る女ではない、それは次のような並置された理由による、すなわち、彼女は一人の女性ではなく、我々の抱く形態の基本的様相の一つ、剣とか盃とか花、等などを要約する隠喩なのだということ、そして、彼女は踊るのではなくて、縮約と飛翔の奇蹟により、身体で書く文字によって、対話体の散文や描写的散文なら、表現するには、字に書いて、幾段落も必要であろうものを、暗示するのだ、ということである。書き手の道具からすべて解放された詩篇だ。

さて、サロメは見事なダンスを披露し、その褒美としてヨカナーンの首を手に入れます。しかし、手に入れてしまった時には、ヨカナーンからはもう何の反応も得られない。微笑みかけてくれることもなければ、サロメからの口づけを拒むこともしません。何故ならば、他でもないサロメがその命を奪ってしまったのですから。そして、そのきっかけこそが、「七つのヴェールの踊り」でした。

一方の愛ちゃんは、というと、練習の時点でやる気をなくし、センターを退き、挙句の果てに予行演習でダンスを放棄します。サロメのように褒美をもらえるような踊りは披露していません。ワイルドの「サロメ」をなぞると、ダンスの放棄は褒美=愛する人の首を得られないこと、つまり、たとえを奪えないことを意味していると読み取れます。サロメはダンスを踊ってしまったがゆえに、ヨカナーンを自分のものにできた。けれども、それはヨカナーンと繋がれる可能性を打ち消してしまうことでもありました。一方で、愛ちゃんは、ダンスを放棄したことで、たとえの首を切ってしまうきっかけをなくしました。同時にそれは、たとえともう一度繋がれる希望を手に入れたことをも意味するはずです。だってたとえはまだ生きている。その体温を残している。愛ちゃんがダンスを放棄した時点で、たとえともう一度接点を持つ可能性が残された。愛ちゃんの「七つのヴェールの踊り」は、それを放棄するところまで含めて、たとえと愛ちゃんの関係性がひらいていく可能性、そうした筋書き、エクリチュールが織り込まれたダンスだったんじゃないか……そう思うのです。マラルメの言葉を借りるとしたら、踊る愛ちゃんの肉体、美雪の手を引き早足で校庭を進む姿に、愛ちゃんとたとえの近い将来が「隠喩」あるいは「暗示」されている、でしょうか。

そして、ダンスを踊りきらなかったことは、同時に、愛ちゃんが成長していく余地を物語の中に残したんじゃないか、とも思います。だって、サロメは踊ってしまったがゆえに、処刑されてしまったのですから。サロメは少女と大人の女性の間で揺れ動く中で、ヨカナーンに向けているのか、はたまた自分自身に向けているのかさえ分からない盲目的な愛を抱いたまま、亡くなりました。「少女性」を持ったまま命を落とし、幕が下りるのです。けれども、愛ちゃんはその瞼をひらき、たとえ、美雪との関係性を変え、自己中心的な少女性を脱ぎ捨てます。愛ちゃんがたとえへの、あるいは自分自身への歪な気持ちを抱いたまま物語が終わらなかったのも、やはり愛ちゃんがダンスを放棄したからなのだと思います。それに、もし愛ちゃんが何事もなかったかのようにダンスを踊れるような子だったら、美雪を奪うことも、たとえにもう一度ぶつかりにいくことも、できなかったと思うんです。きっとそれまでと同じように、クラスの人気者の女の子として振る舞い、推薦をとって、たとえのことも美雪のことも忘れて過ごしたはずです。本当は器用に上手く生きられる子ではなかった、それこそ、予行演習を抜け出しちゃうような子だったからこそ、あの結末になったのでしょう。そうした愛ちゃんの性格、衝動性が表れているという点でも、ダンスの放棄はあのお話の中で重要なポイントになっているのではないかと思います。



追記で拍手のお返事です。


>>2021-12-15 01:23 初めまして~
初めまして。メッセージありがとうございます。瑞々しい感性が滲み出ていて良い文章だな、是非お話してみたいな、と思ってはてなスターをつけたので、こうしてわたしのブログを読んでいただけて、それどころかメッセージまでいただけてとても嬉しいです。ありがとうございます♡それと、靖子ちゃんのLOW hAPPYENDROLLが個人的に好きなので、良いはてなidだな、と思っていました……(笑)最近は更新頻度も落ちていますし、相変わらずしょーもないことしか書いていませんが、褒めていただけて嬉しいです。今後も良かったら色々お話ししてください!