儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

連れて行ってやるとは言わない

以前にも書きましたが、映画のひらいては美雪が愛ちゃんの机の中に手紙を入れるシーンで始まり、愛ちゃんがその手紙を読むことで終わります。美雪の愛ちゃんに対する想いが全体を貫き、愛ちゃんがそれを知ることで幕が閉じる……そんなつくりになっているのです。だから、映画全体を見た時に、愛ちゃんとたとえの関係性よりも、愛ちゃんと美雪の関係性の方が印象が強いのですよね。けれどもやっぱりわたしは言いたい。この物語はたとえに対する愛ちゃんの強い気持ちで回っていると。

この映画のタイトルバックは、たとえが現代文の授業で当てられ、教科書を朗読し、着席し終わった後に映し出されます。その時、たとえの手はまるで何かを拒むように、ぎゅっと握りしめられている、あるいは閉じられている。そこで映し出される「ひらいて」という題字。このたった数分のシーンだけで、この映画の主人公が誰で、何を求めているのか、何のために行動するのかが分かります。愛ちゃんは、たとえに近づいて、彼をひらき、その内側に触れたい。あるいは、自分に触れてほしい。そう考えていると。愛ちゃんとたとえの関係性を軸に取れば、この部分が物語の始まりとなるのでしょう。じゃあ、二人の物語のラストはどこか、という話になるんですけど、それはやっぱり、以前日記で引用したプロデューサーのコメントでも示されていたように、「たとえが愛の顔を引き寄せる」シーンだと思います。この場面で、愛ちゃんはたとえの葛藤を、作り物ではない本当の言葉で受け入れ、ほぐします。そして、たとえは何も言わずに、手をひらき、愛ちゃんの頭を掴むのです。このシーンの、たとえが何も言わないところがわたしは好きです。言葉を介さないことで、二人の間に「愛」とは違う、既存の言葉では表現しがたい関係性が生まれたように感じられるのです。理性が届かない部分で芽生える、自分の意思ではどうしようもできない気持ち。たとえの中に生まれたそれが、愛ちゃんと繋がっていき、愛ちゃんと美雪、たとえと美雪、それぞれの関係性とは異なる結びつきが生まれる。これは、原作で描かれた愛ちゃんとたとえの関係性とは、少し異なっていると思います。原作では言葉があるので、たとえが愛ちゃんを受け入れるにあたり、葛藤や苦悩を飲み込んでいることが分かるんですよね。苦しんだ末に作りだされた関係性、のようなイメージ。それも好きなんですが(というか元々このシーンが映画にあったらいいな、と思っていた……)映画では、自分ではコントロールできない部分での結びつき、みたいなものが感じられて、より二人の関係性が特殊なもの、友達や恋人といったありふれたものを飛び越えた繋がりになっている、気がします。

あと原作だと美雪から手紙をもらうのが先で、たとえと愛ちゃんの関係性がひらくのが後なんですけど、映画だとこれが逆なのですよね。だから、愛ちゃんが変わったことで三人の関係性がひらいていく……という構図になっているんです。愛ちゃんが動くことで周囲の世界が変わっていく。動きが映像として可視化される映画だからこそぐっとくるのかも、なんて思いました。そしてユリイカ買いました。表紙開いて2ページ目くらいで作間の写真(ひらいてのビジュアルだけど)が出てきてヒイイイってなった。別に作間の言葉が載ってるわけでも、作間について直接あれこれ書いてあるわけでもないけれど、凄く嬉しい……のは何でだろう。