儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

つむる、つぶす、ひらく

今月に入り、作間のひらいて雑誌ラッシュが本格化してきました。値段を見ないでレジに持っていくとたまに目玉が飛び出そうになります……怖い。何も考えずに他の本とまとめて出すとまじかーーという数字がディスプレイに出てびっくりします。この前散々騒いでいたspoonも、あの後、無事に手元に届きました。なんというか、あのあのあの、めちゃめちゃにかっこいいのですけど……!!!!杏奈ちゃんと背中合わせ(って言っていいのかしらん)で写っているショットが好きです。女の子と並ぶといつもの3倍かっこよく見えます。

さて、テキストもゆっくり読んでいるのですが、わたしが一番印象的だったのはプロデューサーの方の言葉です。

「たとえが愛の顔を引き寄せるとき、彼の手のひらは”ひらいて”います。あそこで物語はひとつの終わりを迎えているとも取れますね」

わたしはこの作品の「ひらいて」というタイトルの意味がいまいち分かっていません。何をひらくのか。誰がひらくのか。そもそも、ひらくとは何か。原作は、タイトルと同じ「ひらいて」という言葉で物語が終わるのですが、わたしはその場面の意味も掴み切れていません。

一度通して読んだときは、「ひらいて」は心をひらく物語なのだと解釈しました。というのも、作中で、美雪がたとえに対してこのように言うのですよね。

これからはお互い、心をひらきましょう。

そして、愛ちゃんに対してもひらいてあげて、と告げるのです。しかし、たとえが美雪の言葉を受け入れたり、あるいは拒絶したりする前に物語は別の方向へ進んでしまいます。

この複雑な物語には、心をひらくというありふれた言葉だけでは説明が出来ない部分が存在しています。例えば、愛ちゃんは、自分では心をひらいているつもりでも、「嘘をついている」と指摘され、どうすればいいのかと悩みます。もっと言えば、この世界全てにおいて、心をひらくだけでは上手く行かないことが沢山ある。作中、「つながりを求めている」という愛ちゃんの心情が描かれます。他者とのつながりへの希求は、わたしたちにとって普遍的ものでしょう。しかし、心をひらくだけで互いにつながることが出来るのでしょうか?単に自分の心をひらくだけ。それだけではつながることは出来ないはずです。一方的にこちらが心をひらいたとしても、相手がこちらに来てくれないと、つながることは出来ない。そもそも、相手の存在を自分で確かめ、認めなければ、すなわち、自分ではない誰かの存在がなければ、つながる相手さえ存在しません。つながりたいのならば、まずは、自分の目で相手を見て、その存在を自分の外に置くこと。そうした過程が必要であると、わたしは思います。

「ひらいて」の原作は、『彼の瞳。』という言葉から始まり、目に関する描写が数多く存在しています。作間が雑誌で言っていた、たとえの『凝縮された悲しみが目の奥で結晶化されて』もそうですし、これ以外にも、あらゆる場面で、登場人物の目や瞳について述べられています。

例えば、愛ちゃんの目について、美雪はこのように言います。

「私のどこが好き?」
「刺してくる瞳が好き」
「刺す? 射るじゃなくて?」
「刺す。目をぎゅっと細めるときに」

また、先のspoonの引用部分の、たとえが愛ちゃんの顔を引き寄せるシーンにあたる(であろう)原作の場面の直前には、このような記述があります。

しょうがなく彼と目を合わせると、ひそめた眉の下のその瞳は、必死で私とつながろうとしながらも、やはり怯えている。私の心を鷲掴みにする、彼が普段隠している心の奥がむき出しになった、子どものように不安げな眼差し。

たとえは、心ではなく、瞳でつながろうとしている。そして、愛ちゃんの一人称で進んでいくこの作品中に、目や瞳の描写が度々出てくることから、愛ちゃんも瞳でつながろうとしているのではないかと思うのです。

そして、極めつきは、以前にも日記に書いたこのシーンです。

春琴抄の逆をしようか」
「え?」
「私、たとえ君のためだったら、両目を針で突けるよ。その代わりに失明しても、一生見捨てずに、そばにいてね。どう、これで美雪より私を好きになる?」
彼は頬杖をついたまま、動かなくなった。
「ねえ」
「もういい」
「ならないでしょ。だから、思い悩む必要なんてないよ」
彼は返事をせずに黙りこみ、私は自分の席に戻った。

春琴抄は、佐助が自ら目を潰すことで、二人だけの世界に入っていく、あるいは春琴と一体化する物語でした。わたしは、佐助の「目を潰す」という行為に苦しさや痛みを見出すことが出来ません。むしろ、眠りに落ちるような、目を瞑るような、そんな穏やかさを感じるのです。佐助は、若い頃から春琴の置かれていた光のない世界を求めていた。だから、自分の理想の春琴を心の中に留め、春琴と同じ暗闇の世界に入り込むことが出来たことは、佐助にとって、この上ない幸福だったはずです。そのための代償としての痛みならば、それはもはや喜びと言えるでしょう。重力の都は、春琴抄からヒントを得た物語で、目を潰すシーンがありますが、全体的に雰囲気は春琴抄よりも重く、苦しみを抱えたまま暗闇へ沈み込んでいく印象を受けます。目を潰す痛みがそのまま、作品全体に滲み出ているようです。こちらの方が、目を潰す物語と言えるように思います。

「ひらいて」では、愛ちゃんは初めから目を瞑っていて、その目をひらくことが軸として存在している物語ではないか、というのがわたしの今の考えです。たとえへの異常なまでの執着、激情。これは、自分の外にいるたとえではなく、自分の中にいるたとえへ向かう盲目的な気持ちです。美雪が愛ちゃんに対して、愛ちゃんは『反省していない』『瞳が暗い』と言うのも、愛ちゃんが目を瞑ったままで、それゆえ美雪やたとえを見つめられていないことを意味しているのかもしれません。一方で、たとえは愛ちゃんに対しても、じっと視線を注いでいます。「嘘をついている」という言葉に、愛ちゃんはひどく傷ついたはずです。けれど、それに気が付くくらい、たとえは愛ちゃんを自分の視界に置き、分かろうとしていたのだと思います。だからこそ、後半部分の、愛ちゃんを避け、目をそらし、見ないようにするたとえの姿に、こちら側も苦しくなってしまうのでしょう。

春琴抄の逆をしようか』と話す愛ちゃんは、衝動的で、過激に振舞っているようにも見えますが、しかし『ならないでしょ。だから、思い悩む必要なんてないよ』という言葉には、それまでにはなかった冷静さが含まれています。たとえと美雪の間が引き裂けないことを知り、それをたとえに伝える言葉。たとえを手に入れようと無我夢中に走り続けていた時の愛ちゃんとは違います。相手がいるからこそ持つことが出来る温かみがあります。愛ちゃんは『春琴抄の逆』という言葉を口にしたとき、その表現そのままのように、自分の目をひらいたのだと思います。目をひらいて、目の前にいるたとえを分かろうとした。たとえを自分ではない、別の人間だと認識し、その上で、なんとかつながろうと手を伸ばした。だから、たとえもまた愛ちゃんのことを正面から見つめ直すことが出来たのだと、その結果が、愛ちゃんの頭に手を置くあの場面なのだと思います。


そして、夕立タタタ、もとい、挿入歌「夕立ダダダダダッ」がサブスク配信されました。

予告で聴いた時からかわいい曲だなーと思っていたのですが、長尺バージョンで聴くと今時女子アイドルっぽさがあって尚更良い!

この曲の歌詞で「つないでいた手 たとえ君はきまぐれだとしても」というフレーズがあるのですが、愛ちゃんが「たとえって名前は、例えば、じゃなくて、たとえ~だとしてもの方の意味もあるかもね」って言うシーンと重なって、映画の挿入歌って凄い!!と一人ではしゃいでおります。先にも書いたように、わたしは「ひらいて」の物語において分からないことが沢山あるのですが、色々なものが繋がっていく感覚が心地よいです。きっと映画を見たら、またこの作品に対する考えが変わるのだろうなあ、なんて思っています。はやく映画を見たい、けれど、見るのがもったいない気もします……贅沢な悩み!