儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

呼び捨てされる嬉しい響き Good Chance 期待しちゃうな

テレビの国からキラキラ

僕の身体は遅い。ノンケの友人たちは、僕とは絶対的に異なる速度を生きているかに思えた。安藤くんやリョウや篠原さんと同じく、Kもノンケなのであって、彼らは僕を無限の速度で引き離していく。安藤くんの眼差しのまっすぐさ。あれは速度なのだ。無限速度。だが僕の眼差しはカーブする。それどころかカーブしすぎて引き返し、眼差しは僕自身へ戻って来てしまう。僕の眼差しは釣り針のようにカーブして男たちを捕らえ、そして僕自身へ戻ってくる。

千葉雅也『デッドライン』

ゲイである「僕」が抱いている、周囲の男性に対する眼差しは、カーブし、引き返し、同じく男性である「僕」自身に返ってくる。

わたしが作間を見つめる眼差しもまた、同じように、わたしに跳ね返ってくる。わたしと作間は同じ種類の人間ではない。でも、わたしは作間に対して、自分と似ている部分があると思っている。多分、その気持ちはわたし固有のものじゃない。誰かに何らかの形で消費されたことのある人は、皆、アイドルを見るときに同じような気持ちを抱いている、はず、だと思う。

(その頻度が格段に減っただけで今でも嫌だけど)高校生の頃、痴漢されることがたまらなく嫌だった。触られることも勿論嫌だったけれど、今考えれば、jkという記号で、性的に愛でられる対象として見られることが嫌だったのだと思う。作間を見るときに跳ね返ってくる眼差しは、それと似た種類のものだ。物語的な消費は、性的な消費と同じか、あるいはそれ以上の暴力性をはらんでいる。作間の背景に物語を探すことは、わたしの身体を触る人の眼差しと同じ意味があると気付いてしまった。この気付きは、自分の罪と向き合うことだった。

いきなりこんなことを書いたのは、昨日からアイドルドキュメンタリーアレルギー(と勝手に自分で呼んでるだけだけど)について考えているからだ。「なんでアイドルドキュメンタリーが嫌いなんですか?」と聞かれたときに、わたしは、無理やり誰かの人生を物語化すること、それをこちら側が深読みし、消費することでアイドルとしての役割がそれ以外の側面にも流入することが怖い、と言った。確かに、アイドルである部分とそれ以外の部分の境界は曖昧だ。もしかしたらドキュメンタリーという形で切り取られている所は、「アイドル」の部分で、それゆえ、好き勝手解釈して面白がっても許されるのかもしれない。けれど、それが加速するとすぐに暴走を起こし、手に負えなくなることをわたしは知っている。知ってしまった。何も考えていないような表情の裏側には、生身の男の子しかいない。わたしと同じ人間だ。だから、その曖昧で見えにくい境界の何センチ、何メートルも離れた所を歩かなくてはいけない、と思ったのだ。なかなかその通りには出来ていないのが現状だけれど……

アイドルという商品を好きでいる以上、その背景にある生身の人間をも含めて消費してしまうのは仕方のないことなのかもしれない。でも、わたしはそれを、仕方がない、で終わらせたくない。その恐ろしさに似たものを、わたしも知っているはずだから。そこに確かにあるわたし自身の暴力性に、向き合わないといけない。

……ということを今日お友達から、おし、もゆ、のあかりとりりいって似てる!と言われて、心に刻もうと思いました。確かに、わたしとあかりは、ぴたりと、そのまま重なるわけではないけれど、推し(担当)の細部からあれこれと解釈している部分は、高校生の時のわたしと似ている、気がします。色々あって(色々あって……)そういうのは、もうやめよう、と決めたのですけれど、結局完全にはやめられていない自分が嫌です。おたくでいる限り、こうした類の、自分自身の汚さからは逃れられないのだと思います。