儚いから愛おしく、慈しむほど輝く

きっと戻れない日々眺めてた。たった一つが欠けて、諦めて。

きらきらちゅーん

高校に入学したばかりのこと。わたしはありとあらゆるものに絶望していました。どこに住んでいるのか。通学手段は何か。入学形式は何だったのか。他にどの学校に受かったのか。落ちた学校はどこか。そういう、わたし的にはおおよそどうでもいいようなことが、そこでは人の価値基準で、それに飲まれていくことに耐えられなかったのです。でも、それ以上に耐えられなかったのは、女の子を女の子としてしか見ないこと、男の子を男の子としてしか見ないことが当たり前の意識として、そこに存在すること、だったような気がします。容姿の良い女の子は男の先輩から良い待遇を受けること、見ず知らずの人のプリクラをネットで拾ってきてあざ笑うような遊びを休み時間にしている子が当たり前にいること、そういうことに対して違和感を覚えずにはいられなかったのです。

それを一番強く感じたのは入学してしばらく経ったくらいの時でした。その頃、わたしには仲の良い男の子がいました。クラスが同じで、部活も同じで、いつの間にか一緒に登下校するようになって、それで、という感じだったんですけど、ある日その子がクラスの他の男の子から「なんでお前りりいなの?○○さんのほうがかわいいのに」と言われてるところを目にしたことがありました。その時、そう言われた彼がどういう反応をしたのか、わたしはどんなことを思っていたのかはもう覚えてないけれど、わたしが今身を置いているのはこういう世界なのだとやるせない気持ちになったのだけは覚えています。

「女子はみーんな性悪よ?道ですれ違うたびに、『あの子には勝った!』『この子には負けたかも?』って戦いの連続になっていくんだから。」

(『お兄ちゃん、ガチャ』第6話)

「お兄ちゃん、ガチャ」はわたしが中学2年生のときに放送されていたドラマです。1回ワンコインのガチャポンからかっこいいお兄ちゃんが出てくるの!夢が叶って超絶サイコー!という設定のこのドラマはイカれたつかみとは裏腹に、終盤になるにつれ、どこか現実味を帯びた暗くて重い展開に進んでいきます。(さすが野島伸司……)上記のセリフも物語の半ば、主人公ミコが誤って引いてしまったお姉ちゃんガチャから出てきたメロによって語られたものです。

中学2年生のわたしはこのセリフの意味が全く理解できませんでした。そんなことって日常にあるの?漫画とかドラマとかの世界だけじゃないの?と本気で思ったのです。やっぱり野島伸司はおっさんだから女の子の世界のことなんて理解できないのだな、とさえ感じました。でも、その3年後、高校2年生になったわたしはそのメロの言葉を嫌というほどに理解できてしまったのです。これだ、わたしが今身を置いている世界はこういう世界だ、とはっきりと感じたのです。野島伸司にかつての無礼を謝りつつ、この人の中身って本当はjkなんじゃないかと思ったりもしました。と同時に、そんなつまらない世界、枠にいつの間にかはまってしまったことが悔しくて悲しかった。

たぶん、わたしのハイハイジェッツが好きだという気持ちは、その悔しさや悲しさの延長線上にあるのだと思います。女の子を女の子としてしか見ない、男の子を男の子としてしか見ない、そんな世界に生きたくないし、そんな意識を内在化させたくない。そういう葛藤をどうにか飲み込めそうで飲み込めない、という時期にわたしはハイハイジェッツのことを好きになったのです。

わたしは、じゃにーずという世界には性別という概念が存在していないと考えています。何故ならば、そこには男性しかいないからです。どちらか一つしかないのなら、区別する必要もそれを意識する必要もない。だからわたしはそこには性別がないと考えているのです。(もしかしてわたしが胸キュン企画とかには?って思ってしまうのはこういう考えに基づくのだろうか……)また、じゃにーずは基本的に接触もないので、より一層性別という概念が希薄に思われる気がします。そして、ハイはファンサよりもパフォーマンスで魅せることのが多いので、また一段とそういった意識が薄まっている、と思うのです。もしかしたら16歳から19歳という大人でも子どもでないような年齢であることも関係しているのかもしれません。

そんな、どこか実在性が欠けた5人の男の子たちがローラースケートというこれまた普段の生活ではあまり目にしないものを履いてステージ上を駆け回る。これにわたしは心を奪われてしまったのです。物凄く美しいと思ったし、物凄く好きだと思った。嫌だと思うもの、受け入れたくないものがそこにはない、わたしもこんな風になれたらいいな、と思ってしまったのです。

この実在性が欠けた美しさこそ、わたしがハイの中に神様みたいなものを見出そう(2人ずつはしみずの日参照)とする理由なのでしょう。そして、きっとわたしは自分が置かれている世界や当たり前として存在する意識、考えを拒否したいからハイハイジェッツを神様と位置付けると同時にその中に、自分をと重なるところを探しているんだと思います。

少女の身体から暗く思い<性>の闇を取り除いたもの、それが光GENJIの身体だ。彼らには少年の身体だけがあって、少女と異質の精神などはない。少女の闇と大人の男の濁りがないから、彼らはいつも明るい笑顔をしている。少女たちは光GENJIの中に、自分の失われた半身と失いつつある無邪気を見る。思春期の少女はそうやって、大人の男が作り上げているこの世界の恐怖から、数年の間だけ身をひそめているのだ。光GENJIに浴びせられる嬌声は、少女たちが大人の女になることへの諦めを引き受けるまでの、しばしの絶望的あがきの声なのである。

小倉千加子『アイドル時代の神話』)

前々から、男の子の世界に憧れる~とか、ハイは神様!とかいろいろ書いてきましたが、結局のところ、それらは全てハイの中に見え隠れするフィクション感や現実味のなさに自分と重なる部分を探したい、自分が置かれている世界を否定したいという気持ちなんだと思います。そしてそれに気づいていたのに言葉にしてこなかったのは、似たような気持ちが綴られた文章を目にしたことがなかったから、なような気がします。ですが、この前小倉千加子の「アイドル時代の神話」を読んだら光GENJIについての項で上記の表現があり「わたしの気持ちはこれだーー!!」と目からうろこ~という状態になれたので、ようやくこうして言葉にすることができました。

もう思春期と言える年でもないし、渋々飲み込んだことや受け入れたこともたくさんあるのですが、それでもハイに神様みたいなところを求めているのは、まだまだあがきたいからなのでしょう。例えるならそれは、大人になった今でも~どこも~諦められそうに~ないんだよ~(byでんぱ組)という気持ちなのです。

さて、ここまで色々と書いてきましたが、この夏は、わたしがハイハイジェッツにどこか神様のようなものを求めてしまうのかについて考えようと決めました。と同時に、作間についても問いをぶつけ、たらたらと言葉を並べてみようと思います。というのも、作間と2つしか年が違わない、というのはもしかしたら作間に対して言葉を重ねていくうえで幸運な偶然だったのではないかと最近気が付いたのです。もし、更に年上だったら作間を解体していくことに背徳感や罪悪感を覚えることがあっただろうし、逆に作間と同い年や年下だったら作間の中に何かを探そうとはしなかったのでは?と思うのです。でも、今のわたしは作間に対して言葉を持つことに抵抗感を抱いていないし、何かを探そうとする気持ちがないわけでもない。ならば、とことん文章を連ねてやろうじゃないかーー!という気持ちになったのです。

それに作間は9月30日で17歳になってしまうのです……わたしは16歳という年齢が大好きです。だから16歳の彼に沢山言葉をぶつけたいし、残したいのです。きっと、後から読み返して面白いと思うものになるはずに違いないから。それがただのわたしの自己満足だということは重々承知しております。それでも、考えること、書くことで、今の自分、未来の自分を救いたいのです……そう結局はおたくなんてわがままな存在なのです……全ての問いに答えがあるとは思っていません。むしろ、答えなんてないのでは?とすら思っています。でも、答えを探そうとするプロセスに何かがあると信じています。

あ、あと、BS視聴に必要な機械が暑さでやられてしまい少クラ見れておりません……優しい伯父に頼んで今日の分と来週の分を録画してもらえることになったのですが一刻も早くわんらぶが見たいわたしはテンションダダ下がりですう……しかもうきさくがあるとかないとかで!!!あーーー早く見たいよーーーー!!!!